教育には「悔い」がつきもの - 集まって愚痴をこぼし合い、語り合う場を

 教育には「悔い」がつきものだと思います。言い換えれば、いつも「不完全さ」を持っているということです。
 わたしが始めて担任を持ったとき、「先生は色々話してくれるけど、僕の話はひとつも聞いてくれないじゃないか」と不登校だったS君に言われました。今でも思い出す度、恥ずかしさで顔が真っ赤になりそうです。
 良かれと思ってとりくんだことで、厳しい言葉をもらったこともあります。生徒たちの「正義の世論」でクラス内のいじめに立ち向かおうと生徒の声を載せたクラス通信を出し続けたことがありました。あるとき生徒から「先生、これが最後やでね。もう、書かんよ」と宣言されました。よかれと思っても押しつけちゃいけないということなのですね。
 この他にも悔いの残る出来事は数え切れないほどありますが、その様な経験をもとに私たち教師は成長していくのだと思います。教育というのは、「完全な者」が「不完全な者」を教え育てるというようなものではなく、教師と子どもが一緒に成長していくプロセスだと言うことができると思います。
 ですから、「悔い」を出し合う場が必要ですよね。集まって仲間と愚痴をこぼし合い、「どうしたらいいんだろう」、「こんなふうにしたい」と語り合う場が必要なのです。
 岐阜教組では、「『つながる』ことを大切に、『仲間づくり』をすすめよう」と、集まって愚痴をこぼし合い、語り合う場をさまざまな形で作っています。ぜひ一度、顔を出してみてください。

 

岐阜県教職員組合 執行委員長 岩佐孝